こんにちは。
momoレンジャー兼理事のまなみんです。
突然ですが、私には父方の従兄弟が4人います。
全員名古屋出身で、内2人は同じ小学校出身。近くに住んでいることもあり、子供の頃から毎年正月や法事で顔を合わせてきました。
幼い頃の正月は、毎年私の家に親戚一同が集まり、子どもたちはお年玉代わりのおもちゃをもらい、大人は浴びるようにお酒を飲んで、大声でどんちゃん騒ぎながら、おせちや鍋を楽しくつついたりしていました。
一番歳の若い従兄弟が大学を卒業したことで、毎年恒例行事になっていた正月の集まりは、2年前に開催されなくなってしまいました。
それでは寂しいので、従兄弟だけで毎年正月に飲み会を開いています。
その名も「いとこ会」。
私たちは親の年齢が近いこともあり、階段のように一つずつ年齢が違います。
大人になった今でも、「いとこLINEグループ」を作るほど仲がいいです。
私にとっては普通のことも、世間では特殊なことのようで、いとこ会の話をすると珍しがられます。
■そもそも親族は何のためにいるのか?
核家族化が進んだ昨今では、親族とは葬式でしか会わないという方も多いみたいです。
自分の従兄弟が、どこに何人いて、どんな仕事をしているのかを知らない方もいると聞きます。
あまり考えたことはないですが、そもそも親族とは何のためにいるのでしょうか。
■10年ほど前の事件
内田樹さんは、こう言っています。
―ある大企業に勤めていた独身サラリーマンが失職したあと、一気にホームレスまで転落して、寝泊りしていたネットカフェに放火するという事件を起こしたことがありました(もう覚えてないでしょうけれど)。
僕はその人の「失職」から「ホームレス」までのコースのシンプルさと、所要時間の短さに驚きました。
彼には両親が残してくれたマンションがあり、当座はそれを売った金で暮らしていたのですが、すぐに底をつき、そこからネットカフェ難民になるまでさしたる時間はかかりませんでした。
失業後のリスクヘッジをしたのは「親が残した資産」です。広い意味での親族関係がふつうは人間が社会的に孤立することを防いでいる。
でも、たぶん彼の場合は「おじさん・おばさん」とか「いとこ」たちとはほとんど付き合いがなかったんだろうと思います。
「親族なんだから助け合わないと」というような相互扶助義務を感じる親族がいなかった。
少し前までなら、そういう親族を訪ねて「なんとかしてください」と頼めば、面倒を見てもらえた。―
■社会的包摂としての親族
―親族とは別に、こういう親族がいると「自分らしく生きられる」とか「幸福になれる」とかいう個人的幸福のために形成されているわけではありません。
人が無一物で路頭に迷ったときのセーフティネットとして存在するのです。―
『社会的包摂の一部として結婚があり、血縁や婚姻によって縁を持った集団=親族が大きな“かぞく”として強靭な社会的セーフティネットになる。』
彼の意見は頷けます。
私の親族に、現在身体的に調子の優れない者がおります。
優れない時こそ親族で助け合う、私は、そういった関係性を大切にしたいと思っています。
経済も環境も不安定。なかなか当てにできるものがないだからこそ、親族の縁を温めておくのはいいことなのかもしれません。
みなさんも来年は「いとこ会」を開いてみてはいかがですか。
momoレンジャーまなみん
(参照:「困難な結婚」内田樹著)
感想:親族とは。身内とは。”かぞく”について考えるいい機会になりました♡